無料ブログはココログ

« 2015年5月 | トップページ | 2015年7月 »

2015年6月

2015年6月29日 (月)

平塚 樹勢にて

年齢が増すごとに、「やっぱり和食」と思うようになるのはベタな話。ちゃんとそのレールに乗っかっていることは、健全な自分の老いだ。

年齢を重ねたからこそ得られた、価値ある感覚のひとつだ。

年齢が上がることでわかるもの、見えてくるもの、許せるようになるものがある。個人によってその広がりや理解の程度は違うけれども、以前の自分だったらわからなかったなと思うことの代表格が、私にとって和食だ。味も器も文化も居心地も。

いつの間にか、あんなに物足りないと思っていた豆腐や白身魚を、ゆっくりじっくりと味わうようになり、旬のものの登場に耳を傾けるようになっている。苦味とか渋味も、季節の恵みと楽しむようになった。それは同時に、日本酒の楽しさも連れてくる。

楽しんだ食材は、岩ガキやハモ、カジキマグロ、じゅんさい、イカの塩辛、枝豆、ヒラメ、スズキ…

Cimg3252_2

Cimg3254_2

初めてのお店ではどこか落ち着けなかったカウンターで、そんなに肩肘張ることなく、大将やおかみさんと話ができようになってる。

おかみさんの下駄のカラコロという音が、BGMのない店で軽やかに響き、それがなかなかいい感じ。

できれば、お椀が頂きたかったが、メニューやコースに入っていない。そういう割烹店もあるのだな。

ゆっくりと楽しみ、連れも満足。私に比べて日本料理を楽しんだ経験はほとんどないけれど、出された料理がどれも、大衆的な居酒屋さんや、スーパーマーケットでちょっとがんばって買うものと段違いであることをすぐ理解していた。

そうした食の楽しみを、これまでだったら贅沢として縁遠く考えていたけれど、刺身ひとつ、焼き物ひとつ、料理人の食材選びと技術があってこそのもの。

湯木貞一さんの著書に、“食道楽は数ある道楽の中でもささやかな方だ”という内容の記述があったのだと思うけど、ウン、楽しむ力がつき、余韻もこんなにあるのなら、楽しむときが来たのかも知れない。

2015年6月16日 (火)

スーパーへのクレーム

袋買いしたキュウリが、切ってみると5本全部中が白い。要は古くてボクボクしていて、とても使う気になれない。
ハラが立った。
どうしてこんな古いキュウリを売るんだろう。
あの、たくさん売っていた袋売りのキュウリは全部おかしいもので、私だけじゃなく、他の人も怒ってクレームの電話が相次いでいるのではないだろうか。

そんなことが思い浮かんだけれど、そのスーパーではこれが初めてだったことと、野菜一袋でいちいちめくじら立てているのも大人気がなく思い、スーパーがちょっと遠かったこともあって、どうするか困った。

たぶんお店は、レシートと現物を出せば、返金とか交換とかしてくれるだろうと思う。そういう時代だから。客の利益が最大に優先されるものと、これは相手方の落ち度と思う人が大半だろう。

だけど、今日、ある本を読んではっとした。
いまドラマで話題の、秋山徳蔵氏のエッセイ。
その中に、こんな文章があった。

(魚にしても野菜にしても、)「きりょう」は味以前のものだ。みるからに美しい生き生きとした色…いかにもそのものらしい、すなおな姿…この評価に合格しないものは味わってみなくてもまずいにきまっている。…家庭の主婦でも、ものを見ることに真剣な人には、どこがどうということなしに、カンでわかるはずである。(「味の散歩」19pより)

店側が悪意を持って悪い商品を置いているわけではない。工業製品ではないのだから、アタリハズレもあるだろう。だけど売る側としてそういう中でよい商品を選んで並べるのがスーパーとして当然という考えがあった。

でもまず、自分に野菜を選ぶ力がなかったことがすっぽ抜けていた。私は、キュウリの器量を真剣に見ていなかったからだ。さっと手にとって、ろくに見ずにカゴに入れたのだ。

プロの料理人が食材を選ぶ目と、主婦の目はもちろん同じではない。でも、限られたお金で、少しでもよいものを手に入れたいと選ぶ気持ちの根っこは同じだ。

権利という意識を当たり前に思ってしまうと、自分に落ち度があることやレベルの低さを隠してしまう。だから、自分の中で困ったのだ。そして、だから、権利意識いっぱいにクレームを言う人の顔がどこか好きではないのだ。

真剣に選んだものや選びようのないものに問題があったら、そのときはきちんと伝えようと、私の中で基準ができた。

2015年6月11日 (木)

同窓会にて 理系男子のその後

FBで連絡を取るようになったことがきっかけで、高校時代の同窓生と、10人ほどで集まった。

中には、高校時代にヒトコトも話をしなかった人、イマイチ記憶が飛んでいる人もいたのだけれど、同じ場所で同じ空気を吸った間柄か、共通の話がザクザク出てきて、あっという間に打ち解けることができた。

とりわけ、理系男子で目立たなかったタイプの男子たちの豹変ぶりが衝撃的だった。

当時はシャイで、ちょっとイケてなかった感のある彼らが、仕事でもまれ、全国を動いて行動力をつけ、家庭では奥さんに鍛えられ、体を鍛え、話題豊富で饒舌で気配りのあるミドルエイジに変身している。

理路整然とした話しぶり、気配りぶりは、これが高校時代だったら、きっとモテたであろう資質だ。あのときは気付かなかったなぁ。みんなヒョロヒョロだったし。

彼らによると、女子のいない理系クラスの2年間は、ひたすらわびしく、楽しみが少なく、カッコつける目的もなく、クラスの連帯感もなく、同窓会に行ってもクラス単位の席では暗いだけで辛い思い出ばかりだそうだ。半分ホロリとさせられつつも、いまでは抱腹絶倒のネタばかり。

今日はスゴく楽しそうだよ、きっと、こういう再会を存分に楽しむために、あのときのジレンマがあったんだよなんて、なぐさめにならないけれど、しっかり挽回してる!

自分だって、十代の頃の自分が、いかに行動半径が狭く、思い込みに満ちて、いろいろな人と知り合いになろうという思っていなかったことか。お互いトシとったと思いつつ、再会を喜び、お互いの変化を認め合い、再び友人としてやりとりできる機会を得たことは、ずっとほしかったものをサプライズでもらったようなものだ

みっともない失敗が多くて、自己嫌悪が多かった高校時代だけれど、高校時代にとりこぼしたことを、いま、少し笑いながら拾える気がする。

2015年6月 2日 (火)

脱ストレス太り

本来は食事って楽しいはずなのに、バランスとか栄養とか家族の好みとか考え過ぎて、好きなものをおいしく食べるという発想が抜け落ちてました。

いつも食欲があるというのは、それはそれで才能。食欲がなくてお茶漬けで済ませたいシーズンが年に何回かあると、その時期の食事づくりは苦行になってしまいます。

ローテーションを決めて献立を決めたら、自分はどうであろうまずそれに沿って作ればいいので、イライラが減った分、多少の余力が生まれて「ならば自分には、最高のお粥でも作ろう」と最近は思うようになってきました。スーパーでも、ちょこっと自分好みのものを買っちゃったり、デパートでお土産選んだり。

ごくフツーのことだと思うのですが、どうにも長いことできなかった行動です。

自分の取り扱いが下手で、がんじがらめの自分を思い出すたびに呆れますけど、それも実際のこと。未熟な部分だらけで、それなりにがんばってきたんだなって、ちょっと労わってあげたいかも。

で、自分へのご褒美が過ぎて、最近からだが重いなぁって思ったら、オーバーウェイト!もうcrying!!

« 2015年5月 | トップページ | 2015年7月 »

最近のトラックバック

2017年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31